想像力について学んだこと

こんにちは。ついに期末試験が終わりましたね。 モチベーションを下げたくないので、流れでブログを書きます。

Aセメは楽しい授業が多かったです。特に、英語中級・哲学Ⅱ・先進科学Ⅱαでは「想像力」についての話がありました。

ここでは英語中級向けに書いたレポートを抜粋・編集してそれについて書いていこうかと思います。

「未来学入門」

英語中級の授業内容は、Jacob Bronowski氏の『A Sense of the Future』を読んでいくというものでした。この本自体が面白いですし、さらに本の内容を時間や範囲を気にせず掘り下げて考えていくスタイルが(英語一列と違って)好きでした。もうちょっとあの授業をやっていたかったですね。

レポートを紹介する前に一応本の内容をざっくりと説明します。次のような感じです。

  • Chapter 1 A SENSE OF THE FUTURE: 科学が大事にする価値とは何か(=非常に人間的で、民主主義的な価値)。そのような科学の姿勢が未来に立ち向かう上でふさわしい。
  • Chapter 2 THE CREATIVE PROCESS: 科学と芸術における「創造」とは何か(=全人格的に、無秩序の中から新しい「つながり」を生み出すこと)。
  • Chapter 3 ON ART AND SCIENCE: 科学と芸術の違いは何か(=「創造」のプロセスにはそこまで違いはない。創作物への追体験のされ方が異なる。科学は厳密に元の体験と一致するが、芸術はそのようなことはない)。
  • Chapter 4 THE REACH OF IMAGINATION: 科学や芸術における創造と、想像力の関係。人間固有な想像力の在り方。
  • Chapter 5 あるけど読んでいない

レポートはChapter 4の「想像力」の在り方に主眼をおいて書きました。この「想像力」は先ほど書いたようにAセメで受けた他の授業でもよく取り上げられていました。哲学Ⅱでも「想像力とはなにか」というテーマで議論が進められていましたし、先進科学Ⅱαも、ヒトにしか出来ない行動の源泉として「想像力」が挙げられていました。そのため、想像力について書いたレポートを振り返ることは、Aセメの多くの授業にわたって学んだことを振り返ることに繋がるので、書きたいなと思った次第です。

レポート紹介

人間の想像力と人工知能(AI)の持つ力を対比的に考えていくレポートです。

ここで用意するcounterpartはAIである。本文中では、「現在のみを生きることができる」動物と対照的に、想像力によって過去や未来について意識を働かせることが出来る人間の在り方が提示されている。だが、これは本当に人間だけなのか。AIも未来について「予測」することが出来る。「株価予想」などと言ってよくAIが使われている通りだ。他にも様々な「予測」が出来る。本文中で上げられている「チェスの手の想像」について言えば、今やAIのほうがよほど得意なようである。

想像力が無ければ「現在のみを生きる」ことになってしまいます。この話は先進科学Ⅱαとつながってうおーとなりました。Ⅱαではチンパンジーに「交換」が出来ないというのを学びました。交換をするには、一時的に自分の物を差し出すことで不利益を被る必要があります。「後で利益が返ってくる」ということを認識するには想像力が必要です。

レポート中で本文について触れていますので、その部分の補足をします。次のように動物と人間の在り方が対照的に説明されています。括弧内は引用者による追記・省略を表しています。強調も引用者によるものです。

  • The direct (≒physical) gesture of attention and readiness is perhaps the only symbolic device that the dog commands to hold on to the past, and thereby to guide itself into the future.

犬の記憶力を試す実験が紹介されており、犬はどうやら「自分の身体を使って」記憶を保持する(ライトが光った方向に前足を向けておく、など)しか方法が無いようです。

  • the most important images for human beings are simply words, which are abstract symbols.

それに対し、人間には「言語」があります。

  • The (linguistic) images play out for events which are not present to our senses, and thereby guard the past and create the future (...). By contrast, the lack of symbolic ideas, or their rudimentary poverty, cuts off an animal from the past and the future alike, and imprisons it in the present.

人間は想像力によって、過去や未来に意識を向けることが出来ます。一方動物にはそれはできないということが、確かに述べられています。
想像力と言語には密接な関係があると思います。言語を持たないものは想像力も持ちえないと考えます。このことについてはAIの例を通じてこれから書いていきます。

レポートの内容を続けます。再びAIの予測と人間の想像の比較です。

 確かに、「予測」と「想像」は違うのだと言われるかもしれない。最初に書いたように「想像」は人間らしい「創造」の基盤となり、予測は一見そうは思えない。だが、AIが人間らしい創造を出来るようになってきているのは事実である。AIが小説、音楽、絵画などを作ったという話をよく聞く。例えば、AIが文章の続きを補完して小説を書いてくれる「AIのべりすと」は有名であり、よくTwitterのフォロワーが使って遊んでいるのを見かける。

「最初に書いた」部分をブログ上では省略したんですけど、想像は創造の基盤となります。本文に「創造=chaosからのunityの発見」と書かれていました。その発見を支えているのが想像力でしょう。AIに我々のような想像力があるようには思えませんが、それでも似た創造活動が出来るようになってきています。

AIの行う創造が人間らしい創造に近づいてきている事態は、Bronowskiの議論を踏まえれば皮肉なことである。なぜなら、AIにはpersonalityが一切ないからだ。本文にあるように「理性・感情含め全人格を詰め込んで」創造を行っているなんて持っての外で、きわめてdeductiveかつmechanicalな方法で、人間に近い創造ができるということになってしまうのだ。

Bronowskiは、さらに本文中で創造の在り方として「全人格を詰め込む活動」というのを挙げていました。そしてそのような創造は、演繹的な推論、つまり何が導かれるかが前提から決まってしまうような推論ではなく、現実から帰納的に、ある程度の主観的な判断が介在してなされる推論により成り立っているものです。それなのに、それと真逆な位置にいるAIが、創造をそれなりにシミュレートすることが出来ています。

とすると、personalityを持った存在である人間の行う創造と、AIの行う創造に原理的な違いはないのか気になってくる。それを明らかにするため、いくつか定義づけを行う。以前から述べてきたように人間の創造は「想像」によるとし、AIの創造は「予測」によるとする。そして「想像」は人間がpersonalかつinductiveに「unity」を見つけることとし、「予測」はAIがmechanicalかつdeductiveに「trend」を見つけることとする。その上で、想像と予測の違い、特に「人間の創造を人間らしいものたらしめている『想像』の、『予測』との違い」について考えていきたい。

問いを立てるのが難しいという話をよく聞きますが、やはりそうでした。AIと人間の創造の在り方を比べていると、上のような問いに行きつきました。

レポートの中間の部分は省略します。

私は想像が「言語」によって行われる営みである点に、それ(=上に述べた「違い」)を見出せると考える。本文では動物が身体に束縛された仕方でしか記憶を保持できないとされて、言語という記号を操れる人間と対比されていたが、この対比はAIに対しても拡張が出来る。AIの「予測」は言語に拠っているのではなく、数値に拠っている。もっといえば、少なくとも現状AIは数値を記憶するデバイスによってしか記憶を保持することが出来ない。

想像力と言語の話に戻ってきました。AIの創造は確かに人間の創造に近づいてきてはいますが、決定的に違うのはこの点なのではないでしょうか。AIは言語を有していません。人間は言語を有していて、それが想像力の基盤となっています。さらに想像力が創造の基盤となっているので、創造に原理的に違いが出てくるのではないかということです。

非言語的な想像もあるのではないか、という指摘がされるかもしれません。ここで指している言語はもう少し広いニュアンスで、記号全般と捉えてもいいと思います。例えば数学の問題を解くとき空間を想像しますが、その空間も記号として捉えることができそうです。そのため以下に出てくる言語という言葉は記号と置き換えてもらっても構いません。

人間の扱う言語の特徴として、2つ考えられる。1つは表現力の高さである。ウィトゲンシュタインが言うように、人間の言語はあらゆることを表現できる極大の表現力を持つとされる。本当に極大なのかは若干怪しいが、少なくともAIの扱う数値よりは表現力が高い。なぜなら、数値の場合「それが何を意味するか」を人間により規則として定められてしまうため、表現力がその規則の範囲内になってしまうからだ。言語は外から制限されるようなことが無い。文法規則などが考案されても、それは常に言語の運用に遅れて発明されるものであり、実際の言語使用では規則からはみ出ることもよくあるだろう。その「本質的な規則の無さ」がまさに「芸術は爆発だ」というような突拍子もない、想定外の閃きを(芸術のみならず科学においても)支えているのかもしれない。もう1つは、言語の記号性である。言葉はそれ自体が固定的な意味を持つわけではない。外部から情報を受け取る際、受け取り側においてそれをどの意味に当てはめるかについて選択の余地が残されている。そのため、解釈の仕方にpersonalityを介在させることが出来る。AIの場合、数値は与えられた規則の下で一定の意味から切り離すことが出来ない。シンプルな例だと、(255,0,0)という3次元ベクトルの値はRGBというルールが与えられていれば赤と解釈するしかできず、緑だ、青だなどと勝手に値を変えることはできない。人間もAIも同じように「過去の蓄積」が大事だとしても、ストックする際にデータが機械的に処理されるか、解釈を伴って記憶されるかに違いが出てくるのだ。これらの点が、人間の想像とAIの予測の本質的な違いであり、この違いによってこそ人間は全人格を投入して創造をすることが出来るのではないかと考える。

最近読んだ本、レポートに引用しがち。鬼界彰夫さんの『ウィトゲンシュタインはこう考えた』という本を読みました。面白かったです。

記号性についての議論は哲学Ⅱの授業で聞いた話に近いです。AIの扱っている数値は、AIにとっては記号にはなりえないのかもしれないですね。AIにとっては数値を特定の意味(≒文脈、規則)から切り離すことが出来ないので。

先ほど非言語的な場合も記号として捉えていいと書きましたが、今哲学Ⅱのレジュメを振り返ったらこれはまさにそう書いてありました。デリダは『声と現象』において「意識そのものに記号の不透明性が見いだせる」と言っています(表現はレジュメから引用)。ここでいう不透明性とは記号が本質的に持ちうる「一定の意味に留めておくことの不可能性」だと思います。この主張を導くには意識についての説明のステップが必要だと思いますが、簡略化して言えば、意識において重要なのが「自分自身に語り掛けること(自己触発)」であり、語り掛けるうえでその内容が記号性を伴うからということだと思います。

このデリダの言説を踏まえれば、上に書いた言語の特徴、言語的な想像の特徴は我々の意識そのものの特徴に当てはまると言えるでしょう。そして、そのような「不透明性」ゆえに我々は意識そのものに「自分らしさ」の自覚を介在させることができるのかもしれません。AIにはそのようなものを介在させる余地が無い(厳密に規則、コードが定まってしまっているため)から、オリジナリティが生まれないと言ってもいいのかもしれません。オリジナリティは創造のみならず我々が自分らしく在ることの源泉だと考えられるので、自分らしさの源泉として記号的な意識の不透明性を取り上げてもいいかもしれないですね。

以上の議論をまとめる。現代において考えれば、AIも「予測」により人間に近い創造が可能になってきている。今後更に創造力が上がり、人間の創造物と同じように、ある人の心を動かす作品を作るようになるかもしれない。だが、人間の創造のpersonalityの源は「想像」の「言語性」であり、それを有していないAIが人間の創造に近づくのには限界があるのではないだろうか。この点において、人間の創造の営みを機械の営みから区分けできるかもしれない。

こういうことを書きました。レポートでは創造に絞って書きましたが、上に書いたように、このようにして意識そのものについて機械から区別することができるかもしれないです。

創造に関して言えば、実際に人間の創造とAIの創造の成果物的な比較が出来たら面白そうですね。言語あり/なしでどう異なるかみたいなのを知りたい。

あと、これに関する話を先輩としたとき、次のような意見が出ました。

その意味で言語と同等の表現力のある数学的対象を作れないでしょうか

これは面白いと思います。ただ、今まで数学が追求してきたものと逆の方向にありそうですよね。

数学的対象は自然言語の曖昧性などを出来る限りそぎ落として、議論を厳密化するために導入されてきたと思います。

「曖昧さ」を取り入れたような概念、つまり不透明性を持つ概念を扱えるようになったら強そうですね。

謝辞

1学期間お世話になった英語中級のT先生、哲学ⅡのK先生、先進ⅡαのI先生に感謝します。